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地域NPO みやまえ | お知らせ

みやまえ「川崎市宮前区・高津区の戦争遺跡・遺構を巡るウォーキングツアー」ーいつもの足元に、戦争の記憶があったー

「川崎市宮前区・高津区の戦争遺跡・遺構を巡るウォーキングツアー」
-いつもの足元に、戦争の記憶があった-


宮前区内には戦時中、旧陸軍の兵舎があったと聞いていても実態は知りませんでした。

そこで6月25日(日)、WE21ジャパンみやまえは地域の2団体とともに「宮前区・高津区の戦争遺跡・
遺構を巡るウォーキングツアー」を企画し、「みやまえ・東部62部隊を語り継ぐ会」の方たちに
ガイドをお願いして、小雨の降る中を歩きました。

「陸軍」と刻まれた石の軍用地境界標は、宮崎台駅にほど近い、高台から尻手黒川道路への急坂の
途中にひっそりと今も残ります。石標より上のほうに住んでいた人たちは立ち退きを強いられ、一帯は
すべて軍に接収されて兵舎ができました。軍用地に合わせて旧大山街道も曲げられ、広い軍用道路
(現尻手黒川道路)も新設されます。建設作業には多くの朝鮮人労働者が徴用され、馬絹の泉福寺には
数十人が居留していたと住職からお話を聞きました。区の3分の1ほどを占める想像以上のスケール、
有無を言わさぬ軍の圧倒的な力。「戦時」が胸にずしりと響きました。

階段に埋め込まれた石標.JPG
←階段に埋め込まれた石標
陸軍境界標(左右とも).JPG 陸軍境界標(左右とも)

ここにいた部隊は通称「陸軍東部62部隊」、一帯には今も面影を残す馬房や被服廠もあり、終戦時には
数千人の人々が働いていたそうです。二二六事件の後、多くの兵は満州に永久駐屯となり、赤坂に置かれた
兵站部隊は1940年に再編されて、連帯本部がここ宮前に移転。42年末には歩兵連隊が赤坂から移転して
きたのです。その後さまざまな編成替えもされながら、ここから溝の口で列車に乗せられ、中国各地や
東南アジア、太平洋の島々へとどれほど多くの人が送り出されていったことか。

被服廠近くを歩く.JPG


20年余り前、地元の中学生たちの数年にわたり
引き継がれた活動がありました。近隣でご健在
だった方のオーラルヒストリー、地元の図書館
から防衛庁(当時)防衛研究所の資料などの調査
が丹念に重ねられ、その中で何本もの境界標を
発見しました。
当時指導された教諭を中心に「語り継ぐ会」の
活動があります。負の歴史が消えかける中、
足元には重い歴史があること、語り継ぎ"風化"
に抗う大切さを実感したツアーでした。

(WE21ジャパンみやまえ 喜多 麗)

被服廠近くを歩く
  

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